ギブミージョブ!!!









2005/0607





あぁ、・・・・・・・・・・。
今月にすっげぇお似合いのタイトルだ。

なんだろ、仕事って。もうそんなん考えちゃうよ。嫌すぎて。あぁ、嫌すぎて。もっかいぐらい言っとくか、嫌すぎて。

イヤンバカン。

とりとめの無い日々を送っている。最近は、タバコのおまけにガスライターを貰ったので100円ライターを使うのをやめてガスを入れ替えるようにしてみた。ラッキーは有難いオマケをよくくれる。昼が朝で夕方が昼で真夜中が1日の終わりで、そんな生活を送っている。だから、最近は朝と昼を合わせてグラノーラを食う事にしている。牛乳で食うと私の苦手なベチャッとした食べ物になるのでヨーグルトで食う。サクサク感を保つため、少しづつ入れて食う。鉄分が摂れる。フルーツグラノーラは普通に美味いが、(乾燥してはいるもののメロンが入っている。食った時はそのそこはかとない高級感にびっくりした。)野菜のグラノーラはかなり「鉄分マグネシウムカルシウム」と念じないと、ただの鳩のエサに思えてくる。ぽっぽ。

駐車場が無くなってしまったので代わりの駐車場を紹介してもらう。契約更新をするのだが、契約更新期限は3月迄だったとのこと。どおりで、最近駐車場に停めているのが私だけだったはずだ。と、いうより、どおりで駐車場に工事用の車がいっぱい入ってた訳だ。やんわり「お前、何しとったん?」という事を言われるが、こちらもやんわり「何ではよ言わんかったとや。」と、やんわり和やかに更新する。この3ヶ月間の駐車場料金は不動産所有者が変わったとか何とかめんどくさいのか、特にお咎め無し。大まかに得している。

新しい駐車場は月極2千円の「原チャリか?」と思うような破格だったが、駅から駐車場まで5分とかからないものの、その5分をあぜ道のような所を通らなければならない。隣にはダイレクトに川が流れている。痴漢というか、河童が出そうで怖い。
2千円は妥当な値段だ。
日々の生活には困らないものの、乗る波はさざ波。それは順風満帆とは言わない。西洋アンティークギャラリーの募集があって、年に2回買付に行けるとの事。かねがね、そういう石だの陶器だの胡散臭い行商というものがしてみたく、これは行ってみるべきか、と思い速攻電話するが年齢が満たず即効断られる。

時計とか壺とかカメオとか買いたいんじゃ。石とか石とか石とか買いたいんじゃ。買って遊びたいんじゃ。駄目か。30まで待て、カミングスーン。最近はデザインとかコツコツ系職人技よりも博打要素の強い目利きとしての方が向いてたんじゃないか、と思う事しばしば。何せ旅行先で靴を売って儲けて帰って来たような女子だ。前の日記を読み返して思い出した。


しかし、ギブミージョブに相変わりなく、食うに困らずもののギブミージョブ。フリーになろうが定職に就こうが求人情報誌を読む癖が治らず、こんな風だからこうなのか、こうだからこんな風なのか。

一生この調子なのかと考えるとうすら寒いが、何故か面白いやっちゃのぅ〜と思う奴がいる、ここに。









2005/0617
路露

梅雨まではまだ羽織を脱げなくて、日中が暑いのはわかるが梅雨時期の小雨振り出すようなのが寒いっちゃ寒い。空気に水気があるからか、冷えてくる。ような感じがする。雨が降らないねぇ、しかし。
「こおどり」という動作があるが、横溝正史の小説を読んでいると、「雀踊り」と表記されていた。なんたることか!可愛いではないか!ワードの漢字変換だと「小躍り」と出るが、これからは「雀踊り」で認識してゆきたいと思う。





「41」はまだか?という事をWEB拍手のボタンで言われつつおりますが、こういう絵がデスクトップ上にほんとに何個もある。そして一体、このフキ出しに何を入れるつもりだったのかサッパリ。勿論、描きかけの41もある。

こういうブドウの粒みたいなのはいくらでも出てくる、でも、なかなか一皿で盛ってお出しできる状態にはなりません。 そういうのが悔しい。悔しいが、そういう流れ玉のようなものをポコポコ出してゆけるのが、自分の才の実体ではあると思う。良さそうに聞こえるか?悪そうに聞こえるかい? 気になるのはそこだけで。


タクシータクシータクシーミッドナイトブルー、ア・タクシー

電車を乗り過ごして、駅でタクシー会社に電話して、来てもらう。夜中1時半。タクシー会社の電話にはオバチャンであろう女の人の声。タクシー来る。
「寝過ごしたんですか?」「やっぱりそうだ。この時間はそうなんですよ。」「この時間までお仕事で?」「IT関係でしょ?」
何て言っていいのか分からないので、そうです、と答える。違うけれどイメージされている所は近い。当たった、と運転手が言う。「そうなんですよね、この時間ですからね。前も。アレでしょ?昼も夜も時間もあってないような感じでしょう?」ですね、と言う。

「こんな時間で寝過ごしちゃったら大変でしょう?終点まで行ったらホラ、1万っちゃ言いませんよ。それこそ帰る手段が無いですからね、あそこらへんは。特に女の人はねぇ、危ないでしょう?さっきの駅も、まだ電気ついてましたけどねぇ、真っ暗でしょう?何も無いでしょう?」

例えば、日本画は日本の風景自体が湿気を帯びて、遠くが明るく、というよりぼやけて見えるので淡くなってしまい、近くははっきり見えるので濃く見える、だから日本画では遠近法が濃淡であった、とか、そういう話で、今日は月が出ているので山が明るく見える。足元が暗い。道路が黒い。田んぼの草が黒い。

平然と、「いや、でも好きで選んだ仕事ですからね、平気ですよ。」 と言う自分がいる。内心「いうねーいうねーコイツ言うね〜」と思う。けれどもとてもナチュラルに口から滑り落ちる。あぁ、とても自然に流れてきます。これが大嘘でないのは、私が全ての労働を何の仕事であっても疎むからであって、強いて言えば何を言っても嘘なので、これを大嘘と言及した所でどうだどうでもない。イメージですよ、全て。何かを選んだのではなくて、イメージを選んでいるのですよ。

行き先から何処までお帰りで?と聞かれるので、わが町の名を言う。わが町のその中の詳しい場所。「あぁ、駄目ですね〜」と言われる。「車で」と言うと。
「あそこらへんはもう駄目ですもんね、車が無いと。」そうですね、と言う。車が無いと駄目だ。もう何度も何度も。
再度「駄目だ」と言われる。「あれ以上、駄目ですもんね。何か出来ないと、バスも2時間に1本でしょう?でも何の出来ようもない所ですもんね。何か出来ればいいんでしょうけど。」

「そんなものは要らないよ。車があるし。何も出来てほしくないよ。何も出来ずにバスも1本で、でもそのままでいいよ。」それはそう、本当に思う事なのだけれども、何故か言うに及ばないというか、妙な故郷愛の自閉的な所を暴露するようで、それが嫌らしく思えるので言えない。己は、何処までも行ってしまって、変われるなら変われるだけ変わって、進化して如何様にもなれるものになって、でも故郷はそのままであって欲しい愚鈍な田舎であって欲しい。それは何故かと言うと、己がたまに帰ってきた時に変わらぬ姿の故郷を見て、己が如何に変わったか、如何に外へ出たか、それが測りたいから。故郷とはその尺度でなければならない。きっとそう思っているんじゃないだろうか。それをのんびりしていたいよ、とかスローライフとか。して、私はどちらを嫌らしく思っているのだろうか。ともかく、何か言うのもな、と思って「そうですねー」と言っておく。

雨は振らねど、梅雨時の特有の空気に水が溶けているような少しそれが冷たいと思う、霧もかかったような夜の月が出て、月の光がボワーッとしたような澄んだような少しも澄んでいないような、それはただぎらぎらするものが無いからそう思うだけのような、そういう道路の風景を、こういった感傷を、東京NO.1ソウルセットの「夜明け前」の一章節、「つまり、そう、この町を出る事にする。」

それを、もう、何度も何度も、何年も前から、何度も何度も。
相変わらず出てもいなければ、共にもいない。



2005/0625
昨日やったことと今日やったこと、ここ何日かのこと。


バルサンを買いに行った。とてつもなく長デカイ百足が部屋に出て、姉とわきゃぁわきゃぁ言いながら退治した。あまりにウェイトがありすぎて、「掃除機で吸い込めない!」と思った時の恐怖感と脅威つったら。掃除機で吸い込めない虫は怖い=如何に我等が掃除機という武器しか持たないのか。しかしながら、箒でバシバシ叩いて弱らせ、上から濡れ雑巾で羽交い絞め&そのままビニール袋へゴミ箱へ。こう考えると掃除道具は「もとはこういう使い方なんじゃないか?」ってぐらい立派に武器の機能を果たす。で、わっきゃあ!言いながら退治を終えると母から「百足ってね、大抵オスとメスのつがいでいるんだよ。」との事。
どうしてこの人はこんなに酷い事を、しかも今、言うんだろう?と思った。なんと心無い発言をするのだ。で、バルサンを買いに行く。ついでに網戸の虫除けスプレーも買ってみる。困っていたのだ、ここ最近。網戸にしていると、小虫が電気の周りに来て。網戸はぴっちり閉まっているのにお前らどっから入ってくるん、と常々不思議。

ついでに目薬なんか買ってみちゃう。何だかんだ言って、その意味がわからんが、合うのはコンタクト用目薬マイティアCOOL。私は眼鏡派なんだけれども。
色名事典という本を読んでいて、各々の国の色の名前が写真と共に載っている、非常に楽しい本である。例えば、竹からとった青竹色といえば日本では緑系統の青々とした色だけれど、竹の自生しない西洋では「バンブー色」ってのは竹が乾燥した茶色しかないんだよ、とか。逆に白はどの国も雪から名前を取ったのものがあるんだよ、とか。この本が面白いのは色ごとに分けてあるんじゃなくて、自然界から由来する色、とか動植物の色名とか染め色とか、名前をとった所別にしてあるのが楽しい。

これを見ての印象は、日本は圧倒的に色の名前を持ってない文化なんだな、と。染色とかになってくると俄然強くなるんだけれど、せいぜいグラデーションにして、虹色・曙色・空色・水色・雪色・火色がいっぱいいっぱい。あと、灰色や月色があるけれど、灰色は鼠色で、月色は何色というより概念みたいなのもので、風景を色として見てなかったんだな、と思った。それは本の中にちょっと書いてあって、ようするに日本の四季では空ひとつみても移ろいやすかったので特定するのを避けたんじゃないか?とか。それに比べて西洋の色数の多いこと!水の色を水色という乱暴なくくりをしちゃって終わり、もう言及しないでおこうぜ、というスタンスをとった日本人からしてそのしつこさったらびっくりする。海の色とか波の色とか波の中でも特に小波の色とか、海の深い所の色だとか、泡の部分の色とか。

もぅ、知らねぇよ、と言いたくなる。そんな一瞬、切り出せねぇよ、つぅか、観たのお前だけだろ?!ってこういう感覚だったんだろうな、と思った。色というのに対して。特に水に関してはあらかじめ早い段階から「色は無い」と諦めちゃった感がある。海が無いはずはないんだけれど、海の色が無い。水の色も「薄めたもの」という感覚がある。追求しようという影も無い。
ただ、切り出せる染色に対しては逆にしつこい。そんな差はねぇよ、っていうのに同じ色に対して何段階も色を分ける。むしろ、西洋の「それで染めた色は何でもその色ですよ〜」ってのが乱暴に感じる。エッ?!あんたらあんなにしつこかったのに、これはそんなんでいいんだ?!って思う多々。

あつい。駐車場前の川がまじで干からびて地割れとかしちゃって、干ばつという言葉が浮かんで本気でびびる。水を運ぶ方法は知っているけれど、水の作り方も知っているけれど、実際に自分達で作れないんだよな、と思うとびびるまじで。そういうのが頭かち割ったり殴ったり刺したり斬ったりして、「いやいやいやいや、ちょっとまて。」という気になってくる。水も作れないわれら。

夜明けに蕎麦を食う天狗。





2005/0630
FTP。

タグでせませまやっているので当然のごとく、ここはFTPでアップしている。ただ、書いた瞬間にFTPへ持っていくか?というとあんまりそんな事はしない。大抵書いてるのは夜なのでそのままめんどくさくなって寝る。すると大抵、次の日か2日3日、アップするのにかかる。そして大抵、その間、書き直す事もあるし、どちらかと言えば書き直さずに消す事が多い。

何で消すかと言うと、何かよくわからないが、どうでも良くなったりするのもあれば、バカらしくなったりすることもあれば、恥ずかしくなったりもすれば、何考えているのかわからなかったりもする。そういう気分の背景には別にわざわざ言う事でもなかろうさ、というのがある。

だからと言って、じゃあアップしているのは厳選セレクト、わざわざ言う必要があったもの、言いたかったもの、そういうものか?と言われれば、そんな事は全く無い。書き出されるものが、第一関門だったとすれば、消すという第二関門を突破したものではあるが、強者な訳ではない。言わば、運が良かっただけだ。たまたま、アップされた、そんなものだ。そこら辺は何でだろうというのは無い。確かに消すのは惜しいな、と思ったからかも知れないが、まるまるそうですよ!というのも何だかな〜という気がしてくる。消したのも消さずにアップしたのも何ら意味は無いように思える。

総して、私には熱意が足りない。エネルギー。
何でこのような人が絵を描いているのだろう、と思う。ある人が一生懸命描いた絵はやっぱりエネルギーがあっていいんだ、というような事を言っていて、それは非常に良き事で真っ当な事であろうなとは思うが、自分にはあてはまらねぇな、と素直に認めた。俺は描こうと思えば描けるんだぜ?という事ではなくて、何にせよエネルギーが足りない。
描くなと言われると具合が悪いが、じゃあ、好きで好きでたまらなくてもう面白くて面白くてだたそれだけで良いんだってのは、もっと他にきちんと私よりも当てはまる人がいるだろうよ、という気がする。

今日、「笑っていいとも!」を観て、いいともレギュラーが習字をしたものをプロの書道家が順番をつける、というのがあって、その先生が「審美眼」と言ったのが面白かった。熱意があるものはいいのだけれど、それを見極める書道家としての審美眼、だそうだ。よくわからんが、例によってフルーツグラノーラを食っていたのであんまり熱心に聞いちゃあいない。しっかり記憶に残った事といえば、収録がアルタからついにお台場になったって事だ。お台場じゃあ、ひょっこり行ってみるか〜って気になんねぇよなぁ〜とか。

絵が描けるな?と自分で思えてきたのはここ1年ぐらいの間だ。これは即自信とか充実感とかにつながるものでも、まして対称あっての事ではないから、何と取られても何ともかななのだが、そういう感じがある。相変わらず上手とは思えないけれども、ついでに上手でなくてもいいんだい!といえる気合も無いけれども。ただ、でも例えば、かの書道家のような人の審美眼でもって、「あかんよ、これは。」と言われても、「別にいいかなぁ、いいよ、これで。」と思える。それは愛着のようなものでもあれば、自信に似通うようなものであると同時に諦めだろうと言われれば、はい確かにおっしゃる通りで、並ぶのと追求の果てしなさを思った時に足元に見出すようなもので、あぁ、これを虚勢と言えばいいのかとも思う。熱意は無いが他所の田はいつでも青い。青いが、もう他所もおらん所も見んのもめんどくさくなってきた。 まぁ、でも、「くれ。」と言われてもやらんよ。

あぁ、この言葉が出て来た時に、なんだかんだ言ってもそれぐらいには好きなんだな、と思った。いつしか絵を描く自分というのが、家族と同じように、どうしようもない身内を見ているようなものになってきたこの頃。何がしたいのか一体わかりゃしねぇし、何だか頑固だし言う事きかねぇし、じゃぁ、好きにしろよって言うと全く何もする様子でもねぇし、でも共に飯だけは食ってるしって感じ。何の話かと言われると、魂の遍歴。何で最初がFTPなのか?ってぇと、よく日にち間違ってますよ、と言われるので。書いてる日とアップしている日がズレてんのはこうだよ、という魂の遍歴。イン・6月。
本当は6月なんてとうに終わって、実は7月なのを知っているけれども、さしあたってリンクの修正するのがめんどくせぇな、と思って。でも、書き出したのは6月30日でギリ。ギリ。何かよくわからんが、ギリ。

























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